つぶやきとプログラミング

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『天気の子』を見たので思ったこと!

天気の子
天気の子
あいやー、『天気の子』面白かったですねー。
僕も凪先輩みたいなフットサル(゚д゚)ウマーで話術(゚д゚)ウマーなモテモテ人生を歩みたかったでござる。
高校生のテスト期間中に日吉のマックで「泥水泥水」言いながらアイスコーヒーを啜っていた時に陽菜さんはいなかったし、ビッグマックも貰ったことないなぁ。
よかったです
よかったです

過去記事で天気の子について触れておきながら、見る時間が取れず、ずるずると見ないまま過ごしていまして。。。
遂に見れる時間を取れたので見てきました。
そんで感想書きますーブログです。
crittoo96.hatenablog.jp

天気の子が伝えたかったコトとは

さっそくですが、ズバッと。
天気の子が伝えたかったこととは「大人」と「子供」の比較です。
字にすると単純にみえますが、もっと詳細にいえば「社会に染まった者」と「社会に関せず自分の意志を貫く者」の対比にあります。
登場人物の所属グループは明らかでした。

[社会に関せず自分の意志を貫く者]
自分の楽しさを見つけた陽菜。
姉と一緒に暮らすことが何よりも一番な弟、凪。
陽菜に会いたい帆高。
弟君のことの身代わりになる女の子たち。
帆高を助け、カーチェイスが楽しそうだった夏美さん。

[社会に染まった者]
警察にビクビクしていた不良の兄ちゃん。
自身の安全のためにハトになって警察に密告・時間稼ぎを目論んだ須賀さん。
「煙草を吸うってことはそういう人ってことでしょう」の須賀さんの結婚相手の母。
帆高に逃げられたことをメンツが潰れたと怒る若手警察官。

最もわかりやすい判断基準が国家権力を恐れていたか否かです。作品全体を通して、警察は「社会の監視」の代表として描かれていました。
社会を気にする大人たちは警察の介入にうろたえていましたが、自分を貫く子供たちにとってはどこ吹く風でした(帆高に関しては、権力に屈しない少年像にするために多少強引な描写がありDQN風味強めでしたが)。また、結婚相手の母と若手警察官は周りからの評価を気にしていました。周りがどう思うかが自身の価値だと言わんばかりの物言いでした。各登場人物の発言や行動の端々からどちらに所属しているのかが判断できました。

序盤から終盤まで、時にはカップ麺の蓋になりながら、時にはそこらへんに広げて置いてあったりしていた帆高の愛読書に天気の子のヒントがありました。
それが『キャッチャーインザライ』です。ライ麦畑でつかまえて村上春樹が訳したものですが、これが作中で5,6回登場していました。
crittoo96.hatenablog.jp
『キャッチャーインザライ』が伝えているのがまさに「社会に染まった者vs社会に関せず自分の意志を貫く者」の対比です。
帆高の警察に対する「お前らは何も知らないのに!!」の叫びは、キャッチャーインザライの主人公・ホールデンと重なりました。ホールデンも「お前らは何もわかってない。」を口癖のように言いまくります。

キャッチャーインザライと関係が??
キャッチャーインザライと関係が??

新海誠監督によって意図的に設定されたであろう帆高とホールデンの一致点が年齢と短期間のストーリーです。同じ16歳の出来事。ホールデンの場合は3日間の出来事をまとめたもので、帆高の場合は1か月の出来事をまとめたものです。どちらも短期間の間で濃密な経験をしています。
もし、帆高がホールデンの性格も踏襲していたとするならば、帆高は心の中でホールデンと同じように否定的な意見をずっと思っていたのかもしれません(たしかに序盤の須賀さんにビールを奢らされているときは、「未成年にたかる社会人、最高だぜ!」という感想を心の内で述べています。)。その観点でもう一回視聴したら面白いですね。

天気の子は、帆高の社会との離反を主軸にしてストーリーが進んでいきました。
帆高の家出から始まり、歌舞伎町でのトラブル、警察に追いかけられる、須賀さんとの別れ、都心の壊滅などなど。。
もし帆高が聞き分けのいい高校生であるならばすべて起こりえないことです。
家出しない。歌舞伎町で下手なことしない。警察にすぐ謝る。速攻で家に帰る。周りの損害を考えて知らぬふりをする。

帆高がいい意味でも悪い意味でも社会に染まっていないからこそ誕生したストーリーなのです。

拳銃の発砲シーンについて

拳銃を発砲するシーンが二度ありました。
一度目が、印象に残ったのがどちらのシーンにおいても熱弁する帆高を無視して力づくで言いなりにする「大人」に対して発砲するということでした。自分の言いたいことが通じず、「そうに決まっている、そうでないといけないんだ」の思考停止パンチを繰り出してくる大人に対しての銀の銃弾でした。
もちろん、弾は空を切ったわけですが、それを食らったキャッチの兄さんはあっけにとられるわけです。ある意味で帆高の発言の意志を装填した銃弾でした。

二度目の発砲が、帆高を足止めする須賀さんに向けた発砲でした。このときも帆高を無理やり制圧する「大人」に対しての発砲です。
帆高にとって、一度目の発砲と二度目の発砲では大きく違う意味があったでしょう。
二度目の発砲のときは、一度目の劇的な効果に味を占めたわけではなく、「大人には論(意思)でなく、武をもって伝えるしか通じないのか」そんな思いだったのでしょう。
帆高を言いなりにさせるために武力を行使して、それに対抗するために武力を使うというのも皮肉でしたね。大人の世界は「世論から始まり、最後は武力に至る。個人の意見は無視される」と言いたげなシーンでした。

暴力こそ生
暴力こそ生

作品が伝えたかったことを体現しているのは夏美さん

社会に染まるか染まらないかの揺らぎ
社会に染まるか染まらないかの揺らぎ
全登場人物の中で特に注目すべきなのが、夏美さんです。
夏美さんは、就職活動において思うようにうまくいかず、自分が好きなことがわからなくなって迷走しているシーンがありました。
更にそのあとの須賀さんを車内で待っているシーンが重要です。スマートフォンで就職活動情報を苦い顔で見た後、「晴れ女はいるのか??」のゴシップサイトを嬉しそうに閲覧するというものです。すなわち、夏美さんが本心からしたいことはゴシップ雑誌の情報収集なのです(占い師との会話の中でも目を爛々と輝かせていましたね)。このシーンに「本当はやりたくない、ただ社会的にやらなきゃいけない」と「本当にやりたいこと」の対比がありました。
夏美さんは、天気の子の登場人物の中で「社会に染まった者」と「染まってない者」の間で揺れ動く存在でした。

新海誠監督は、所謂「大人」になる、すなわち本当にやりたいことが出来なくなるのは、就職後だと伝えたいのでしょうか。
新海誠さんは完全に我が道を往っています。以下wikipediaからの引用です。

大学在学中からアルバイトとして立川市のゲーム会社・日本ファルコムで働き始める。大学卒業後は、4代目として家業を継ぐための修行として、父親の紹介を受けた都内の住宅メーカーに勤める予定だったが断り[9]、1996年に大学を卒業してアルバイト先の日本ファルコムに正式に入社。
~中略~
会社員時代は、夜中に帰宅したあと午前3時頃までアニメーション制作を行い、翌朝6時に起床し出社するというような生活を送っていた[9]が、2001年初夏の頃に5年間勤めた日本ファルコムを退社[16]

夏美さんに例えると、そのままゴシップ情報誌を続けて、情報収集をプライベートの時間でもやって楽しい生活を送っていくようなものです。
案に予想ですが、我が道を往く新海誠監督だからこそ「社会を気にして生きなくていいんだよ、好きなことやろうよ」をこの作品を通して伝えたかったのだと思います。
夏美さんはあの後どっちの道を選んだのでしょうか。普通に就職したのでしょうか、はたまた。。。

男の子と女の子が落ちてくるシーン

帆高と陽菜が再開した後、空から落ちるシーンがあるのですがあれを見て何をイメージするのでしょう。
やっぱり『千と千尋の神隠し』の千尋とハクのシーンでしょうか。
それとも『エウレカセブン』のアネモネとドミニクのシーンでしょうか。
僕はエウレカセブンが近いと感じました。帆高の「陽菜と一緒にいたいんだ!!」という発言がまんまドミニクの発言と被りました。

また、陽菜の肌が雨に侵食されていくというのも、エウレカがスカブコーラルに侵食されていく姿を思い出しました。また陽菜が犠牲になる舞台(魚が群れてるシーンえげつねぇ)である雲の形自体もスカブコーラルに似ているし、エウレカ自体が世界を守るために犠牲になる設定も陽菜が犠牲になるというのと似ていますので、もしかしたらエウレカセブンからアイデアを拝借しているのかもしれません。

エウレカ:スカブコーラルに侵食される
エウレカ:スカブコーラルに侵食される
思い返すと、須賀さんが徐々に帆高の影響を受けていく流れもホランドレントンの関係性に似ているような気がしてきます。。。

天気の子の魅力

警察の年長者がつぶやく「人生を棒に振ってでもやりたいことがあったんだろう、いまとなってはそういうのも少しうらやましいな」に凝縮されていました。
職を持てば、家庭を持てば、社会的に責任を負う立場になればなるほど下手なことはできなくなります。
「自分のしたいことを貫く帆高たちvsすべてを世間体で捉える大人たち」この折衝がこの作品の魅力だと思います。

聖地:代々木会館
聖地:代々木会館
代々木会館内部:看板
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代々木会館内部:東豊書店
代々木会館内部:東豊書店